フェリーの中で思ったこと日記

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これは、北海道で地震が起こる3時間くらい前にフェリーでメモ帳に書きました。

 

17時。フェリーは時刻通り出港した。

最初は楽しかった。景色が良かったし、ご飯もまともだった。お風呂も気持ちかった。

 

19時半過ぎ。りょうごくんが船酔いで気持ち悪くなった。顔色も悪い。

一応気休めに水&薬は買ったけど、どれほどの効果があったかは分からない。ああ、非常に無力だ。

大事な人の体調が悪いだけで、こんなにも気分が下がってしまうのか、と思い知らされた。

たかが船酔いだ。病気じゃない、生理現象の一つ。

時間が経てば治る。原因が排除されれば治る。

それでもこんなに不安になるのだ。

どれだけ普段、りょうごくんに依存してるか思い知らされる。

この前、私もお腹が痛かった。結構。

りょうごくんはとても心配していた。

「まぁ体調悪いけど死なないし、そんな心配しないでよ」って思ったけれど、見てる方はそんな軽くない。

むしろ、見てる方が苦しいかもしれないねって思う。

早く波が収まってくれれば良い、早く新潟に着いてくれればいいと思った。

 

20時前、館内放送が鳴った。急病人が出たとのこと。

「医療従事者の方は受付までお願いします」の放送。

飛行機でよくあるやつだ、と思うと同時に「私は何もできないな」と思い知らされた。

保健室の先生の免許はある。救急救命の講座くらいは受けたこともある。

でも実務経験はない、ペーパーだ。

そもそも保健室の先生は医療従事者ではないので、実務経験があったところで何ができるのかと言われたら微妙だろう。

とにかく私が急病人のためにできることは、無い。

祈ることくらいだ。

放送中も、隣には具合の悪そうなりょうごくん。

「急病人ってこの人のことか?いや、違うよ船酔いだよ」とか一人で思った。

 

20時半、再び館内放送。

「急病人の症状が重篤です。」

あ、そうなんだ。医者はいたのかな?「重篤だったけど大丈夫になりました」ってお知らせかな、と思った。

その後の館内放送は衝撃的だった。

急病人の症状は重篤で治っていない。

高波のためヘリポートも利用できない。

小樽港に引き返す。

「小樽に引き返す????」

周りの乗客もざわざわ。具合の悪いりょうごくんもこっちを見る。

港を出て3時間半も経ったところで引き返すなんて選択肢があるのか。

なんでこんなとこで具合が悪くなってしまったのか。持病があったとしたら、乗らないで。

はっしー(新潟で迎えにきてくれる友達)に連絡したいけど電波のせいでできないな、申し訳なさすぎる。

 

そんなことを瞬間的に思った。そして、そんなことを考える自分に嫌気がさした。

人の命がかかってる場面で、私は自分の都合しか考えられていない。

だけど、人間はそんなもんなのだろう、とも感じた。

「人命第一」と合言葉のように唱えるけれど、知らない人命も第一に考えられる人はどれくらいいるだろうか?

自分に関係ない命は、毎日どこかで生まれているし消えている。

生まれる命にいちいち喜んでたら疲れるし

消える命を想っていたってキリが無い。

他人の命などそんなもの。

関係ない人、仕事でもかかわらない人、顔も知らない人の命なんて「想う」ことが不可能だよね。

何も知らないのだから。

 

そして次にりょうごくん。

船酔いで気持ち悪いのに、引き返すことにより乗船時間は大幅に伸びる。

小樽に引き返すのに3時間半、急病人を搬出するのに何分か。

その後何事もなかったように出港したとしても、プラス7時間半~8時間はかかるだろう。

つまり私たちは、17時~9時(16時間)で済んだ船旅を

17時~翌日17時か18時(24時間くらい)に延長されたのだ。

原因のわかる体調不良を続ける気持ちを考えたら、かわいそうで仕方ない。

 

そもそも新潟に行こうと言ったのは私だから、りょうごくんの苦しみは私のせいだ、私と仲良くなったばかりにこんな思いをさせてしまって申し訳ない、と思った。

そしてはっしー。忙しい中わざわざ迎えに来てくれるのに、時間または日にちの変更をして申し訳ないと思ってしまった。

しかもフェリーは電波が死んでいるため、すぐに連絡できない。

非常に申し訳ない。

 

誰も悪くないはずなのに、各所への「申し訳ない」が溢れて気が下がってしまった。

ので、気持ちを整理するためにこの文章を書いている。

 

普段、このような文章はnoteに書く。noteにというより、note「で」と言った方が正しいかもしれない。

だけどネットが使えない環境なので、パソコンのメモ帳に書いている。

ネットがないと心が余計に不安になる。

「ネットさえあればどうにでもなる職業」をしているけれど、

「ネットがないと何もできない」モヤシみたいなヒョロヒョロ人間。

もし災害があった時、ネットで生きてる人は弱いと思う。

もちろん長期的に見たら給料が激減しないから、店舗を持つような人に比べたら余裕なのだろうけど

避難所みたいなところに行った時、すごく無力な気がする。

ネットばかりのモヤシっ子たち。

人の命を助けたり、現場を取り仕切ったり、衛生の知識があるわけじゃない。

ネットが使えれば、正しい情報を拡散するときに役立つかもしれない。

だけど、大きな声で指示を出したり

人間関係を調整したり

そういうことは、できない。少なくとも私はできない。

ただその辺に突っ立って、「邪魔者」になるとか

何もできないで隅っこにいるとか

そんな人だと思う。役立たず。

 

ネットは便利だ、だけど弱い。

動物として何かが弱い。

フェリーの中で、自分の無力さと動物としての弱さを感じている。

緊急事態の時、私は何もできない。動物として弱い、すぐ死ぬだろう。

現代で「緊急事態に備えた職業につく必要性があるか?」と聞かれたら、「無い」と答える。

それでも、動物としてあまりにも弱い。

これは東日本大震災をきっかけに、自給的な生活を目指した人、パーマカルチャー的な文化が流行ったことにも通ずるだろう。

緊急事態やどうにもできない事態に陥った時、人間はどうにかしようと危機感を感じる。

それは脳みそが発達したが故の危機感なのか、はたまた動物としての本能的危機感なのか、わからない。

私はなるべく自給自足的な生活がしたいと考えている。ここ一年ほど。

だけど、その理由は分からない。

予想できるのは

・食べることが好きだから

・土いじりが楽しいから

・お金がかからなくても生きられることがカッコいいから

・かっこいい、特異性、変わってる感じに憧れている

・自給自足をしている人は表情豊かで幸せそうだから

・長い人生の暇つぶしをするには、労力的にちょうど良さそうだから

・「豊かな暮らしの象徴」って感じがするから

・「いいことをしてる感」があるから

・誰にも文句を言われない暮らしって感じだから

・野菜が好き、食べ物が好き

なんで野菜を作りたいんだろうね。

なんで自給自足に憧れるんだろうね。

それは自分の欲求なのかな。

それとも、そういう暮らしをしている自分をだれかに自慢したいのかな。

もしネットが無かった場合、私は自給自足に憧れたりしただろうか。

ネットがなければ、自給自足をしてる若者を知らなかったかもしれない。会わなかったかもしれない。

そもそも私がTwitterをやらなかった場合、自給自足をしたいと思うだろうか。

俗にいう、インスタ映えみたいなやつ。

私は、インスタ映えというか、人から「良い」と思われたい欲求が強い人間だ。

だから、もしもTwitterが無かったら、自給をしないかもしれない。

私は誰のために、何のために、自分の暮らしを営んでいるんだろうか?

はっきり答えられる人でさえ、それが本当に本心なのか、思い込んでいるだけなのか、分からないだろう。

私は何を目指しているの?誰のため、何のため、生きようとしているのだろうか。

答えが存在しないのは分かっているけれど、自分に投げかけたい。

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ABOUTこの記事をかいた人

田舎暮らしの詩人 ななさま

どうぶつの森みたいな暮らしを目指して千葉の金谷に移住した思想家。収入源はライティングとブログ。秋田出身で千葉大学18卒。ヨーロッパで物書きしたい。児童福祉に貢献したい。記事寄稿/被写体します。