いつも疑問に思う。
「今は●●に集中したいから●●をやめる」
「●●と●●を同時に頑張る」
みたいな考え。
どこまでを同時とカウントするんだろう?
例えば、「ライティングとブログを同時にやる」って表現。
1日のうちにライティングタイムとブログタイムがあるなら、それは「同時にやってる」に含まれるだろう。
1週間のうち月火水木はライティング、金土日がブログの場合も「同時にやってる」に含まれるだろう。
1ヶ月のうち前半はライティング、後半はブログの場合は「同時にやってる」に含まれるか微妙ならいんだろうか。
1年のうち最初の8ヶ月はライティング、後半4ヶ月はブログに集中する場合は「同時にやってる」とは言えない気がする。なんて表現するんだろう。
同時って、何を持って同時というんだろう。
「今」の範囲ってどこからどこまでなんだろう。
肩書き論にも似てるけど、言葉の定義や時間の定義を自分の中で持たないと、今どこで何をしてるのか、自分は誰なのか、分からなくなるね。
言葉が好きなせいで、言葉に縛られる時がある。言葉と感覚を自分のものにしないと、動き出せなくなる。
それは悪いことじゃない。何を大事にしてるかは、人それぞれ違う。
わたしみたいに言葉や感覚が重要な人もいれば、とにかく動いてみる方が重要な人もいる。目に見える数字で動ける人もいる。
言葉の無力さをいつでも感じている。表現できないことがあるから、不満足だから、まだまだ想像したり書いたりできる。満ち足りたら、無力じゃなくなったら、何かしようと思えない。
足りないことが嬉しいし、ありがたい。
足りないうちが楽しい。できないうちが楽しい。
できたら飽きる。足りたらわたし、いらない人になるかもしれない。
不足感を「だめなもの」と決めつけず、「不足してるからこそ気持ちや感覚が刺激されるね」って感謝したい。
別に何も生まれないんだけどね。
何も生まれなくても、心地よさを探ったり、何か思いついたり、そういうゆるさで許される世界が必要。